下堂園インターナショナル

ドイツ北部・ニーダーザクセン州の小さな田舎町ディープホルツ。音楽隊の童話で有名なブレーメンから車を1時間ほど走らせた田園地帯の真ん中にあるこの町で、1998年、下堂園インターナショナルがスタートしました。

下堂園インターナショナルの歴史は下堂園の海外挑戦の歴史

もともと革製品の工場だった建屋をDIYで1年かけてリフォームした社屋には、オフィスのほかショップと倉庫、パッキングルームと抹茶を挽く工場、顧客向けの宿泊施設、そして茶室と枯山水の庭まで備え、現在12名のスタッフが働いています。鹿児島の本社から輸出されたオーガニックの茶葉はここに一旦ストックされ、箱詰め後、ヨーロッパ中のお客様のもとへ出荷されていきます。
下堂園インターナショナルの歴史は、下堂園の海外挑戦の歴史です。挑戦のきっかけは1990年(平成2) 年。パリで開催された世界有数の「国際見本市SIAL」に、とある日本企業のピンチヒッターとして急きょ参加したことに始まります。この時は、ヨーロッパのバイヤーから見向きされることなく帰国。
しかし、この時の体験をもとに、下堂園はヨーロッパの緑茶市場への本格的チャレンジを決意します。翌年ドイツで開催された「国際見本市ANUGA1991(ケルン・世界食品メッセ)」に出展するため、下堂薗洋(専務)が再び訪欧。そして、ここで1人のドイツ人、マルクス・ハステンプフルグと出会ったのです。

ドイツ人を驚かせた鮮やかな緑色の日本茶

当時、自然食品会社でバイヤーをしていたマルクスは、初めて見る下堂園の緑茶に驚きました。独特な味と香り、鮮やかな緑色。
マルクスはその出会いを「まさにマジックウォーター。ひと目で恋に落ちた」と言います。彼がそこまで驚くのには理由がありました。当時、ドイツで売られていた緑茶は、ほとんどが黄色く濁った中国茶。
赤い紅茶、黄色い中国茶のなかにあって、鮮やかな緑色をした日本のお茶は「あるはずのないお茶」だったのです。翌1992 (平成4) 年、さっそくマルクスの勤める会社と下堂園の取引が始まりました。ところが、話を進めるうちに、ドイツの残留農薬規制という大きな壁が立ちはだかります。それは、日本の基準とは異なる非常に厳しいものだったのです。日本では普通に販売されている緑茶も、そのままではドイツの審査に通らない。もちろん審査を通らなければ、販売もできません。

おいしさそのままに海外の厳しい規制をクリアする安全なお茶

認証を得て「おいしさそのままに、海外の厳しい規制をクリアする。安全にこだわったお茶を作る――。」この目標を達成するため、下堂園は大きな決断を下します。それは、有機栽培に取り組むこと。ドイツの残留農薬規制をクリアするだけでなく、世界で最も厳しいといわれるドイツの認証機関から、有機栽培茶としての認証を得ようというのです。さっそく本拠地の鹿児島で契約農家さんと力をあわせ、有機栽培への取り組みを始めましたが、その道のりは難航を極めました。栽培開始から2年で虫が大量発生し、葉は病気で痩せて枯れ、収穫もままなりません。それでも試行錯誤しながら取り組み続け、3年目に念願のドイツオーガニック認証を取得。4年目、5年目を迎える頃には、安定した収穫量を確保できるようになり、下堂園の海外進出は熱を帯び始めます。

オーガニック日本茶ブランドとして築いた確かな地位

そして1998(平成10)年2月、下堂園はこの数年で培った有機栽培のノウハウを利用し、鹿児島に自社有機農園「ビオ・ファーム」を設立します。この農園は、ヨーロッパ向け有機栽培茶の生産地としてだけでなく、下堂園がその後生み出すさまざまな新商品の企画・開発を担う、大きな存在になっていきます。時を同じくして、マルクスが自然食品の会社を離れ、独立。1998(平成10) 年10月、自然な流れで下堂園とマルクスは、マルクスを社長とするドイツ現地法人「下堂園インターナショナル」を設立します。これでようやく、下堂園の海外進出の準備がすべて整ったのです。マルクスと洋が最初に出会ってから実に7年の月日が流れていました。以来、鹿児島茶の美味しさを海外で伝え、広めてきた下堂園インターナショナル。とりわけ食の安全性にこだわりの強いドイツで「ビオ・ファーム」産の茶葉の確かな品質と信頼性は高く評価され、オーガニック日本茶ブランドとして確かな地位を築いてきました。2000年代に入り、世界的な健康志向の高まりも手伝い、グリーンティーが注目されるなか、ドイツを中心に欧州・北米合わせて10カ国以上と取引を行っています。